雑記(2021年3月)

悩んでいる時にはブログを書くに限る。
というのは盛った言い方であって、本当はその悩みを解決する為に色々なことを試していて、その色々の中にブログ執筆が入っているに過ぎないのです。
今更になって冬アニメを一本追い掛けてみたり、今を時めくウマ娘プリティーダービーをインストールしたり、シン・エヴァンゲリオン劇場版を五回観賞して五回ともマスクを濡らしたりしたのも解決策の一環です。否、最後のは悩んでなくとも実行していたような気もするが。

所謂オタク趣味以外にも触れた方が良いんじゃないの? という囁きも自分の中にはあるのだけれど、こういう時に下手を打つとその新しく手を出したものを嫌いになってしまい、より既存の趣味にのめり込んでしまうケースもあるから中々難しい。はたまたその逆もあって、新しく得たものが楽し過ぎたら二度と同じ場所に帰って来られないんじゃないかという不安もある。というのも、今持っている手札を磨き直したいという明確な目標があるから故なのだが、恐れることでよりおかしな方向に進んでいるというのもまた皮肉なことです。

要は新しいことをやるかやらないかは実はどうでも良くって、自分のやっていることに納得したいんでしょうね。

 

これら感情の一端を友人に相談したら「自信のなさが出ちゃってるのかもね」という言葉を頂いて、それまで私は自分の抱えているそれを肥大した承認欲求だと思っていたから目から鱗が落ちた。友人曰く、承認欲求も自信を見失っている状態の一種だと言うけれど、でも私って自信だけはいつもあるじゃないですか。あるんですよ。というか、切らさないように頑張っているんです。そこにないなら足すのです。

なのに友人の言葉がすっと入って来たのは、シンエヴァで幾年かぶりに再会した葛城ミサトさんの生き方が、ずっと私が信じたかったものに極めて近かった、という経験が直近にあったからかもなと気付く。自分の感じたものを信じていて良かったんだなあ、という気持ちが補強される以上の喜びなんて滅多にないし、それがこの三週間の間に自分を映画館に通わせていたのかもしれない。(勿論他にも沢山の理由があって繰り返し観賞していたので、あくまで理由の一つでしかないが)

でもコンテンツに何かを期待したりそれで失望したりって、本当に作品そのものを味わっているのだろうかという疑問。
エヴァに限って言えば、他人の中にそれぞれエヴァがあって、如何にしてそれと向き合ってきたかが今回の映画公開で浮き彫りになったのではないかな、というのがネットの海を泳いだ所感なのだけれど、その中で傷付く人がいなかったのかと言えばそんなことはないのだろうし。
エヴァに限らずとも、作品から何を見出すかって正解はないけど好き不好きはあるから人は傷付く。オタクの場合は対象を「作品」にすることで逃げ道を作ることも出来るけれど、それって生きている人間の言葉だって同じな訳だから、何かを発信するってとても怖いことなんですよ。
そんな人間はブログなんて書けなさそうだけど、その恐ろしさと発信の楽しさ、誰かを理解したかったりされたかったりという欲なんかを天秤にかけながら、今日もしんどいなってずっと考えてる。

 

そしてこれはエヴァの追告ですが、手を差し伸べるシーンが沢山あるところが刺さる。やっぱり手って、自分以外の誰かに伸ばすためにあるんじゃないかとも個人的には思うんですよ。旧劇と新劇で意味合いは違ってくるけども。

 

話は変わりますが、今週末ラジオに呼ばれています。
私は上述のように陰鬱な時期真っ只中なのであれですけど、Hashさんと日陰屋さんのお話が楽しみなので頑張ろうと思います。
92kaは昨年8月にも呼ばれていたのですが、あの時と真逆のテンションにいるので逆に面白いかもしれません。私が。

 

今回は神原と扇くんの話をするらしいです。
扇くんと言えば、花物語の沼地と神原を指して「分かり合えたような気になれた」とか評していたりして、まあ結局理解しようとしてもしきれないのが人間だし、その現実を受け入れられるかどうかもあるよなあ、なんて愚考もする。

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