雑記(冬)

十二月末日。数年ぶりにインフルエンザになる。
四十度を指している体温計というものを見たのが久しぶり過ぎて妙にテンションが上がる。上がったのは体温とテンションだけで体は怠過ぎて辛い。ファッション的にメンタルがすさまじく弱いのでさっさと死を覚悟する。
2018年の締めには、秘蔵の羊肉と鍋を食卓に並べながら、年始に掲げた「今年の抱負(推しカプ1組につき1冊出す)を見事に達成したぞ!」って自己満足ツイートをすることだけを楽しみに十二月を生きていた節があったが、朦朧とした意識の中では寝ることしか出来ず、気が付いたら年が明けていた。紅白もガキ使も全く見なかった。それこそ年末くらいしかテレビを見ない人間なので、まるまる一年分テレビを見なかったと言えるかもしれない。

年明け。食欲は落ちなかった(元から希薄)ので羊肉を食べたが味が分からない。
ぷくぷくのお正月イベントが始まる。この辺りで自尊心が死ぬ。
それでもje8さんの献身的な介護により復調していく。

 

数日後、神原駿河に興奮出来なくなっていることに気付く。
あまりにも神原駿河のことを考えないままずっと寝込んでいた所為か、一時は完全に可愛がる方法を忘れる。

私がオタクコンテンツに対しインポテンツになることは珍しくないが、ここまで急激かつ顕著な症状は類を見なかったのでちょっと焦る。
高熱で脳が変性したとしか思えなかった。炭酸の液体に表面が白っぽく変色したタンパク質の塊のイメージ図を描写したが最後、しばらく頭から離れなくなる。
ついでにソシャゲのガチャで限定の神原を引けないことがマイナスな思考を増長させ、果てはそれ以外に愛情を示す方法がないのではないかという錯覚まで引き起こす。しかし、悩んでいる最中も、この思考方法は間違っているという自覚はあるので目の前のゲームに夢中になることも出来なかった。

合わせて、数週間前に漫画版の解釈違いに頭を悩ませたこともぶり返し、鬱々しい気持ちになる。週間連載という好条件に対し贅沢な悩みであることは百も承知で言うと、好きな描写もあれば苦手な描写もある、という読了感は、そのまま私の中の阿良々木暦に対する評価と似ている。
一時期話題になった「公式が解釈違い」というパワーワードを思い出す。
それとは別に、作品を追う中で苦手な点、気になる点が出てきたら、自身がそのコンテンツの対象じゃなくなったことを疑え。という論もあって、それはそれで正しいのだと理解は出来る。
まるで解釈が違ったら、その世界で生きているのが罪であるかのような気がしてくる。きっと後ろめたいのだろう。
自分の中の解釈を絶対的に出来るのは自分以外にいないのに、私自身が肯定してあげられていない。私がかいたかんらぎは間違っているのだろうか? 作品としての評価より、整合性を問われる方が何より恐ろしい。というか、他者に強いている様を見て嫌悪感を覚える。しかし、気に障るってことは自分がそういう立場に立っている可能性があるということだ。それって超嫌だな。
なんで好きなものに愛憎抱えて生きなきゃならないんだ。楽しいことだけ摂取して生きられないのかよ。いや、抱えていること自体は悪いことじゃないけれど、それで困っている現状が耐え難いんだよな。
いつまで経っても体が重い。

このブログを執筆中に気付いたが、こういう時こそ「悩むことを先送りにする(意訳)」という沼地蠟花の思考法は解決方法として有効っぽい気がする。意識してこの解決策を選べなかったことは口惜しいが、結果的に今回も彼女の論に救われる。
ただし、途中で冬コミ新刊の感想というありがたいマシュマロを頂いたことは、絶大な効果を発揮したようにも思う。
私は文章を人様に見せる為にかいている訳ではない。というのはかき始めた頃のお約束事のひとつだが、他人の思考のスパークを拝見出来るのはとても尊いことだし、もっと簡単に言えば、私の産んだ日本語から誰かが新しい日本語を産んでくれるのは素直に嬉しいので、まあこの辺りのルールはもう少しゆるくしていきたいな、と2019年現在は思っている。

 

漫画版化物語(特装版)を買う。顔が良い神原駿河が表紙だ。嬉しい。回復の兆しが見えることに安堵する。
書店でSF小説アンソロジーを見かける。知らない作家さんの名前が並ぶ中、生首の話に惹かれて衝動買いする。

 

今後の展望。
初詣に行きたい。去年買った破魔矢を納めておみくじを引きたい。
そしてイシンノセカイ3の参加可否を決める。
一年の抱負はあえて決めないのもたまには面白いかもしれない。
先述の悩みについては「うるせえ! 私が読みたいからかくんだよ!」と言い返せるくらいには回復した。

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